遣唐使廃止と新羅の脅威

『日本記略』は天平六年(894)9月30日に
遣唐使を廃止さたとしていますが、
19日には諸国に警固を停めており、
出雲・隠岐二国に烽燧を設置させて、
23日に山陵に使を遣わせ奉幣しています。

『西宮記』二十四臨時十二の
仁王会裏書を見てみると、

尋常の政を停む、
新羅の凶賊来侵するに依るなり

と新羅の賊の襲撃への対応とされ、
キナ臭い状況であった事を
伺う事が出来そうではあります。

これに伴う国内の動きは、
調べると出て来るのですが、
殆ど知られていない状況で、
道真公の研究の進みを
非常に悪い物にしています。

出雲や隠岐と言えば半島に近く、
半島からの交易は大宰府も
重要な拠点であった事から、
遣唐使の停止に繋がった事は
納得出来る説明ではあります。

しかしこの時期の日本は
外交オンチであったとされ、
アジア諸国との関係を
鎖国に近い状態で過ごしたと
伝えられる事に疑問が出ます。

この時代の史料は少ないですが、
それでも疑問を浮上させうる
記述が残されてはいます。

これが新羅による侵攻でなければ、
大きな歴史の見直しが必要となり、
道真公の大宰府左遷や遣唐使廃止も
根底から見直しが要求されて来ます。

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