謎の八幡宮の建立

延喜二十一年(921)六月二十一日、
大宰府の観世音寺の西大門において
若宮一御子が七歳の童女橘滋子に憑き、
託宣をしたと言い伝えられています。

橘滋子の託宣で莒崎の新宮を造立し、
新羅に向いて建てるように言っており、
人民が弱り、公家の勢いが衰えると、
新羅が必ずや来襲してくるので、
莒崎宮の礎面に「異国降伏」の事を
書き付けた柱を立てるよう命じます。

醍醐天皇の延長元年(923)に
筥崎宮が建立されるに止まらず、
承平七年(939)は莒崎宮神宮寺に
天台六宝塔の一つが建立されます。

これは最澄の発案した国家護持計画で、
日本の六力所に一〇〇〇部の法華経を
安置する多宝塔を建立する呪術ですが、
比叡山の東塔・西塔、上野(群馬県)、
下野(栃木県)、筑紫竈門(大宰府)、
豊前宇佐宮弥勒寺が建てられていたものの、
宇佐の宝塔が未完成であったそうです。

莒崎宮の神宮寺に弥勒寺分の塔を建て
六宝塔が完成したとされるそうで、
呪術的国防が急がれた背景には、
新羅への脅威があったとされます。

九世紀前半から後半にかけ新羅海賊や
流民が問題になっていたとされますが、
九世紀末には急速に国力が衰えた新羅に、
そこまでの脅威を感じる必要性が、
本当に存在していたのでしょうか。

日本書紀は徹底的に新羅を悪く言い、
分かれた恋人の悪口でもないなら、
痛い目にあわされた怨みによって、
スケープゴートにされた可能性を
感じさせる話ではあります。

真震、後百済、高麗などの建国により
935年に新羅は滅亡させられており、
新羅滅亡前の高麗の交渉に対して、
日本は鈍い反応をしたとされます。

この時代の日本は鎖国に近い
閉鎖的な状況であったとされ、
外交音痴な印象で語られますが、
当時の外交と言えば道真公です。

921年は菅原道真公の大宰府左遷の
19年後の話とされるのですが、
アジアの動乱が日本に関係なく
進んでいったとされる歴史には、
大きな隠蔽が存在していそうです。

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