『託宣集』小椋山下の部にある
延喜二年(902)に託宣の中に、
我は是大自在王菩薩なり、
大明神には非ず、
我は釈迦の化なり。
と八幡神を釈迦の化身としますが、
後の『筥崎宮記』ではその本地が
弥陀三尊に変化しています。
『東大寺八幡験記』には、
八幡は沙婆にては釈迦とし、
浄土では阿弥陀といい、
別の物ではないとする
八幡神の託宣がありますが、
かなり苦しい感じですね。
902年は菅原道真大宰府左遷の
前年とされている事を考えると、
この周辺は信仰が変遷する
社会情勢であった事が伺えます。
阿弥陀信仰は釈迦の仏教と
全く異質なものであり、
信じれば救われるのは、
一神教的な気配がします。
この周辺の詳しい話については、
『行基菩薩とヘレニズム復興』で
説明したので重複は避けますが、
石清水八幡宮の八幡神の定義が、
この周辺で変わった事が伺えます。
私が石清水八幡宮の建立が
清和天皇の御世とされる事に
疑問が出る所ではあります。
道真公の以降に政変があり、
御祭神が一神教の神ではない
八幡宮が建立されたのなら、
道真公に通じるヘレニズムの
信仰が復興していたのでしょう。
八幡神について書いていくと
一冊分にはなってしまうので、
詳細は別に譲る事にしますが、
志多羅神上洛事件において
天神の神輿を担いだ集団が
石清水八幡宮に行っています。
これは乗っ取られた八幡宮を
もう一度取り戻すための
動きであった可能性があり、
天神が関わる事も意味深です。
志多羅神上洛事件の流れが
伊勢神道などに通じる事は、
『ええじゃないか』の本に
色々と書いておきました。
道真公によりヘレニズムが
復興されていたとすると、
大規模な歴史的改竄が
行われた事になりますが、
当時のアジア情勢を見ても、
大規模に変革しています。
筥崎八幡がアジア情勢の変化に
対応するために建立されたなら、
この時代は国内情勢のみでなく、
アジアの再編成の文脈の中で、
再解釈が必要となるでしょう。