木管に記された高麗との交流

1996年、平城京の故城内の東南の隅の
朝堂院跡付近の遺溝と推定される土層から
木簡が出土したそうです。

天平宝字二年(758)十月二十八日の
日付のある木簡に記された内容には、

依遣高麗使廻来
天平宝字二年(730年)
十月二十八日進二階叙

と高麗の文字が見えていますが、
この時代は高麗と言う国は存在せず、
コリア参ったねと言った感じですね。

これは758年の第三次遣渤海使の帰国後の
使節たちの特別昇進の記録とされ、
この時期の『続紀』の記録にこうあります。

丁卯(二十八日)遣渤海大使従五位下
小野朝臣田守(あそんたもり)に従五位上を授く、
副使正六位下高橋朝臣老麻呂(おゆまろ)に従五位下を

とあるので遣高麗使の意味するのは
遣渤海使であった事が分かります。

当日の日本は遣唐使よりも
遥かに多くの遣渤海使を送り、
深い交流が存在していました。

渤海国は高句麗国の遺民たちが、
旧高句麗領土の南満州に再建した
広大な勢力を誇った国家であり、
新羅の北で影響がなかったと
考える事はできませんね。

第一回の渤海国書に記された内容に、

高麗の旧居を復して、夫余の遺俗を有てり

と高句麗を復興させた事を根拠に、
飛鳥時代以来の高句麗との間の前例に従い、
隣好の誼が始まったとされています。

高句麗の僧侶が聖徳太子の
仏教の師匠となった話があり、
高句麗との交流があったと
考えられてはいますが、
私の著作を読んだ方であれば、
疑問が出る事になるでしょう。

聖徳太子非実在説については、
『豊橋三大祭の深層』から
書いてきた事ですが、
馬小屋で生まれた預言者は、
キリストがモデルですね。

ゾロアスター教のミトラ神が、
大勢の話を聞いた聖徳太子の
モデルとなったとする説を、
行基の本に書きました。

この時代はソグド人が
三つの一神教を信仰し、
アジアに多大な影響力を
行使していますね。

高句麗・百済の仏教には、
一神教の影響を受けたものが
存在した話はしましたが、
岩戸開きの本にもかなり詳しく
この周辺の流れを書きました。

私の研究の結果では倭国でなく
百済と高句麗の交流がベースにあり、
百済勢力の侵略戦争が壬申の乱で、
唐・新羅により滅ぼされた両国が、
後に復興して国交を再開した説を
提唱する事になりますね。

朝鮮半島の歴史書『三国史記』は
高句麗に都合良く書き換えられ、
ヘレニズムが隠蔽された事は、
以前書いた覚えがあります。

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