好王太碑文

四世紀末の高句麗に好太王が出現し、
西は遼東に進出、南は朝鮮半島を南下し、
国土を大きく拡大していったとされます。

高句麗は百済と提携する事によって
半島を北上する倭軍と対立をし、
熾烈な戦いが繰り広げられた事が、
好太王の碑文に記されています。

この碑文の信憑性も色々と言われており、
これのみでこの時代を判断する事は
難しい部分があるのは間違いありません。

日本史には空白の四世紀と呼ばれる
国内の記述が残されていない時代があり、
倭王が中国に送った上奏文の中には、
倭の五王が半島について交渉する内容が
記されている事だけが分かっています。

この倭王・武がヤマトタケルであり、
海外からの侵略で王が殺されたので
卑弥呼(神功皇后)を立てる事になり、
侵略で乱れた国を統治するために
東西を統治していった事について、
『平将門の深層』に書いておきました。

神功皇后は応神天皇の母とされ、
新羅討伐に出たとされますが、
新羅に追い出されて倭国に来た
百済勢力による侵略戦争を、
中国の史書に擦り合わせるため、
申し訳程度に書いたのでしょうか。

半島の歴代には様々な疑問があり、
新羅でギリシャ・ローマの出土品が
認められる問題が存在しており、
ヘレニズムの痕跡を抹消したい
信仰対立があった可能性について、
行基の本に詳しく書いてあります。

四世紀中盤に北の高句麗に押され、
朝鮮半島の様々な国が纏まる事で
新羅と百済が生まれたとされますが、
新羅の成立や半島諸国の関係は、
いかなる物であったのでしょう。

私は半島も含めて秦帝国が統治し、
日本列島も含めてヘレニズムが
広まっていた歴史の抹殺のために、
ソグド人等の一神教徒が動いた
可能性が高いと考えています。

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