日本と契丹の記述の違い

契丹(遼)国が東部モンゴリアを中心に
栄えた時期の日本はどうだったのでしょう。

醍醐天皇から鳥羽天皇にかけての
摂関政時期から院政時期が相応し、
醍醐天皇と言えば菅原道真を
大宰治に左遷させた天皇ですね。

『遼史』はこの期間に三回の来貢が
日本からなされた事を伝えています。

太祖天賛四年(925、醍醐天皇延長三)十月庚辰。日本国来朝
道宗大安七年(1091、堀河天皇寛治五)九月己亥。
 日本国遣鄭元・鄭心及僧応二十八人来貢。
道宗大安八年(1092、堀河天皇寛治六)九月丁未。日本国遣使来貢。

記述では1092年で終わっていますが、
1115年に満州から南下して来た
女真族が宋と共に契丹を攻撃して、
1121年に滅ぼしたとされているので、
ほぼ末期に朝貢した事になりますね。

925年は阿保機の建国(907年)の18年後で、
道真公崩御の903年から22年後になりますが、
日本の記録では契丹の使者を排除しています。

最終的に太宰府を破壊したとされる
藤原純友の乱が941年とされており、
この周辺はアジア情勢との関係から
見直す必要が大きそうです。

本にも記した志多羅神上洛事件は
945年の出来事とされており、
国内の動乱期に廃止されていた
契丹との関係が再開された背景の
研究が弱い状況となっています。

当時の朝鮮半島は新業の混乱期に相当していて、
日本と新羅との公的な関係が絶えて既に久しく、
新羅の混乱に乗じて自立した後百済や高麗が、
日本に遺使して修好を求めたのに対しても、
日本はこれを拒絶したと伝えられています。

新羅の辺境の人が日本の西海地方を侵害し、
新羅海寇と呼ばれていたとされますが、
ここでも新羅が悪者扱いですね。

『続日本後紀』『三国史記』は、
日本・朝鮮半島間の私的な通商関係は、
絶える事なく続いていたとします。

『遼史』百官志・北面国官には、
日本国王府が属国として掲げられ、
国内外の記述に違いがある背景を
考えさせられる事になりますね。

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