藤原純友の乱

遣唐使停止(894年)後に大宰府の統制下で
日唐貿易や鴻臚館貿易が行われた後、
唐の滅んだ後の960年に樹立した北宋が、
日本や高麗と貿易を行ったとされています。

平清盛も太宰治との関係が深く、
太宰治は日宋貿易も重要とされ、
大陸との関係において古から
重要とされていた事が分かります。

藤原純友の乱は939年とされていますが、
唐が滅亡後の五代十国時代(907~960)の
アジアとの関係はどうだったのでしょう。

宗はかろうじて契丹に朝貢して
均衡を保っていたとされており、
日本・契丹間に交流がなかったと
現状では考えられてはいますが、
朝廷側が反契丹であったとしても、
影響が皆無であったのでしょうか。

契丹は後に宗と組んだ女真に
滅ぼされたとされていますが、
アジアに大変動があった事に対する
日本への影響の記述がありません。

平将門と組んで天下を乱した
大罪人とされる藤原純友ですが、
この時代的背景を見てみると、
簡単に悪人と断定するのが、
非常に難しく思われますね。

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