藤原純友の乱と契丹

平将門と呼応して国を乱したとされる
藤原純友の最後は大宰府と関係します。

瀬戸内海を中心に暴挙を尽くした後に、
大宰府の財物を奪い取って焼き払うと言う
とてつもない暴挙に出たと記されますが、
大宰府が唐の植民地支配機構だったなら、
彼の行動には別の解釈が可能でしょう。

天慶二年(939)十二月十七日に、
純友が船に乗り巨海に出ようとしていると
伊予国から朝廷に報告が届いた事から
純友の逮捕と京への召喚命令が下され、
ここの解釈が問題とされています。

通説では巨海でなく海上であり、
純友が瀬戸内海を東征してくる事に
対応したと解釈されているようですが、
巨海の解釈によっては契丹国まで
視野に入れざるを得なくなります。

菅原道真が遣唐使を廃止したとされ、
この時代背景に唐の内乱があったなら、
唐の支配から脱却してどう運営するかを
模索すべき時期にあった事になります。

この時期の日本は鎖国下にあったと
歴史に記されてはいるのですが、
本当にそれが許されるだけの
アジア情勢にあったのでしょうか。

『平将門の深層』には余り深くは
書く事はしませんでしたが、
将門の乱の背景には政府の失策から
地方に重税をかけ酷い取り立てをし、
これから民を守るために動いたのが
実相であった説は他でします。

純友は瀬戸内海から九州にかけて
活動した海賊とされていますが、
海の民と言えば安曇族ですね。

契丹の求めた古代アジア復興構想が、
東大神族による古代アジア統治の
復興を理念とされたのであれば、
安曇族のアジアでの活躍と重なり、
契丹が純友と結託する事に対し、
朝廷は危惧を感じたのでしょうか。

将門の乱は二ヶ月で平定されますが、
純友の乱には二年もかかったそうです。

北九州や岡山県、兵庫県などにも
安曇族の痕跡が残されていますが、
志多羅神上洛事件は兵庫県発で、
一連の流れで解釈が可能になります。

志多羅神上洛事件は天神の神輿が担がれ、
道真公が担ぎ上げられた事になりますが、
八面神などの別の神々も登場し、
関係性が気になる所ではあります。

安曇族の拠点と言えば何と言っても
東三河の渥美半島が挙げられますが、
鬼道の民である安曇族の祭祀が
道真公の牛伝承に連なるなら、
志多羅神上洛事件で天神の神輿が
担がれた意義が分かりそうです。

これらは契丹によるアジア再編の
動きの中で解釈されるべき話であり、
東大神族の復興運動であったと
見る事が出来るのでしょうか。

新羅の賊とされた勢力は契丹側の
軍事行動であったと仮定すると、
朱雀天皇が摂関家に取り込まれ
次の村上天皇が摂関家を排除した
一連の流れの再解釈が必要です。

これが契丹側との戦いであれば、
契丹に敗戦する事で傘下に入り、
アジアの再編成に組み込まれ、
先住民族王朝が復興していた
可能性が浮上してくるでしょう。

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