平将門の別伝

月岡芳年《芳年武者旡類 相模次郎平将門》〔明治16年(1883)西井正氣蔵〕
月岡芳年《芳年武者旡類 相模次郎平将門》

日本三大怨霊の一柱とされる平将門ですが、
斬られた首が京都から飛んでいくと言う伝承以外に、
別の伝承が静岡県掛川市に残されています。

掛川宿の西の端に十九首という町があり、
中心の塚の周囲に十八の塚が囲む十九首塚があり、
平将門とその一門十九名の名が記され、
付近には将門橋と言う名の橋も存在しています。

藤原秀郷軍により討伐された平将門と家臣十八名の首級は、
検視のために京に運ばれる途中、
掛川で京から派遣された勅使と出会って首実験を行うと、
勅使は京都に対して激しい恨みを持つ者の首なので
京都に持ち込むことはならぬと首を棄てるよう言われ、
秀郷は逆臣とはいえ、高貴な者で、罪が重いと言えど、
死者に鞭打つことは出来ないと言い、
この地に手厚く葬ったと伝えられています。

井伊谷(浜松市北区引佐町)に伝わる資料では、
井伊直親は、桶狭間の戦いの後、
松平元康(家康)と通じているとの小野但馬守の讒言に対し、
今川氏真に申し開きをすべく駿府に向かう途中、
今川の忠臣で掛川城主であった朝比奈泰朝の襲撃を受けて死に、
この場所が十九首であるとされています。

渋川城跡の北側にも井伊直親の墓がありますが、
実際は誰の墓なのでしょう。

掛川は遠州の東側に位置しています。
ここが平将門一門の墓であるならば、
三遠の中心に近づけさせてもらえず、
遺体と古代王朝とを因縁付けせさせないよう
この地で留まらせられたのでしょうか。

十九首塚には、平将門と共に戦った面々の名前が記されています。
 
相馬小太郎将門・御厨三郎将頼・大葦原四郎将平・
大葦原五郎将為・大葦原六郎将武(以上一族)
鷲沼庄司光則・武藤五郎貞世・鷲沼太郎光武・堀江入道周金・
御厨別当多治経明・御厨別当文屋好兼・隅田忠次直文・
東三郎氏敦・隅田九郎将貞・藤原玄茂・藤原玄明・
大須賀平内時茂・長橋七郎保時・坂上逐高(以上郎党)

現代でも平日の昼間から首塚への参拝は途絶えませんが、
関東の民を守った英雄であるのなら、
十九首塚の面々へも参拝も面白そうです。

江戸総鎮守として奉られていた守護神を
怨霊として蔑ろにしていては
加護は受けられないでしょう。

都市伝説界隈では未だに怨霊扱いされていますが、
民のために命を張った英雄達を
アクセス稼ぎのネタにする訳にもいきません。
日本がここまで酷い状況になっている中、
自分一人が何とか逃げ切れれば良いと言う姿勢では、
見棄てられてもいたしかたありません。

関東在住の方達は首塚に参拝し、
今後の関東をどうしていけば良いか、
考えてみては如何でしょうか。

トランプ大統領が再選すればアメリカ追随は終わり、
日本がどうしていけば良いかに直面する事になります。
誰かが何とかしてくれるという考えでいくのか、
自分には何が出来るのかを考えるのかでは
大きな差が出かねません。

明治維新以降の流れが行き着いてきていますが、
江戸を世界最高水準の都市として長期に渡り
守護してきた存在をこのままにして良いのでしょうか。

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