第十回遣唐使は天平八年(736)に
玄宗皇帝の親書をたずさえ帰国します。
ここで玄宗より託された国書には、
日本が礼儀の国と称賛されており、
主明楽美御徳(スメラミコト)と
日本の国王を呼んでいます。
『延磨僧録』の逸文によれば、
日本に賢明な主君がいると聞くが、
使人達に接すると他国と異なるとし、
「礼義君子之国」と言っています。
この頃は行基が弾圧されており、
二年後に大宰府で藤原広嗣が
乱を起こしたとされています。
藤原広嗣の乱は行基の本に
詳しく書いておいたので、
ここでの重複は避けますが、
この段階で唐は日本に対し、
大きく対応を変えています。
遣唐使には容姿端麗な人物が
抜擢された事になっていますが、
武則天の影響を廃した玄宗に、
日本はどう対応したのでしょう。
武則天は朝廷と同じ信仰を持ち、
三つの一神教を信仰していたのに、
玄宗はこの影響を廃しています。
日本書紀を作ってまで侵略戦争を
内乱として捏造して唐と関わり、
これを誤魔化し続けるために
第十回遣唐使が派遣されたのに、
発覚して戦となったのでしょうか。
藤原仲麻呂が個人で起こした
反乱とされているものが
唐との戦いであった説は、
行基の本に詳しく書きました。
結局日本の朝廷は唐に負け、
道鏡をトップに据えた政権が
唐と交流していたのであれば、
敗戦の後にも侵略戦争を続け
勢力を取り戻した朝廷が、
唐とどう関わったかですね
この段階の遣唐使には、
最澄・空海・橘逸勢がおり、
密教と密接に関わっています。
玄宗は日本が仏教のみ信仰し、
道教を廃除していた事に
苦言を呈していますが、
安史の乱で密教の力を借り
安禄山を打倒しています。
ここから唐では密教が崇拝され、
遣唐使が密教を学ぶ流れは、
唐と先住民族復興王朝の関係に
立脚した話であったのでしょう。
役小角の密教は雑密と呼ばれ、
空海のは純密とされていますが、
地続きの可能性が出てきますね。