邪馬台国の後に中国正史から日本の記述が百年近く消え、
空白の四世紀と呼ばれています。
その後に倭王が遣使した宗の正史である
「宗書」夷蕃伝・倭国条に、
『倭の五王(賛・弥・済・興・武)』が登場し、
中国の南朝に使者を送っています。
使持節都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六(七)国諸軍事、
安東大将軍、倭国王
倭王はこの称号を認めてくれと強談したようです。
使持節は将軍につけられた使持節・持節・仮節の三の中の最上位の称号で、
都督は監督・統括で軍事令官を意味し、
そこから派生した都督府とは唐の軍事あるいは行政機構です。
都督府の名のつく施設には熊津都督府や筑紫都督府がありますが、
筑紫都督府は大宰府の別名とされているので、
九州は中国の管轄下に置かれた事があったのでしょうか。
478年に倭王武が宋に使いを出した後、
倭と中国は600年の遣隋使派遣まで122年間通交した記録は残っていません。
ヤマトタケルは武と書いてタケルと読む事がありますが、
倭王・武はヤマトタケルの事だったのでしょうか。
ヤマトタケルは景行天皇の御子とされていますが、
粗暴で傍若無人、卑怯で嫌われ東西の征伐に行かされ、
倭王武の上表文の前半の記述にある
「祖先が東は毛人を征すること五十五国、
西は衆夷を征すること六十六国」
に近い内容が記されています。
地域によってはヤマトタケルを天皇と呼ぶところもあり、
天皇の御子とする古事記・日本書紀の記述と違っています。
先住民族の王の伝承を抹消しきれず系譜に取り込んだとして、
東西を統治した功績が中国にまで伝わった王は、
倭国大乱で国が乱れ卑弥呼を立てた後に全国を平定し、
其鬼宮で花祭の前身である鬼道を行い国を統治した存在だったのでしょうか。