円仁は武宗の愚劣な行為の中で、
特に道教への盲信を強調します。
武宗と道士達は不死の峯(仙台)を
建設した事が記されています。
道士・趙帰真(チャオクエイチェン)が
この峯の発案したとされていますが、
彼は武宗の統治を記録する公の歴史にも
何度も登場してくる人物です。
円仁は844年の9月に趙と他の道士達が
皇帝に献じた覚え書きを引用します。
仏陀は西方の夷狄の間に生まれ、
不生を教えました。
不生とは簡単にいえば
死であります。
つまり、彼は人々を涅槃へ
改宗させたのであります。
涅槃とは死であります。
彼は多く無常・苦・空について
語ったのであります。
それらは特に薄気味の悪く、
彼は無為および不死の原理を
理解しませんでした。
最高なる者、老子は
中国で生まれられたと
伝え聞いております。
彼はさすらい歩き、
いつの間にか自然に
姿を変えられました。
不老長寿の薬を練り上げ、
それを飲んで不死を獲得し、
霊魂の境界の一つになられ、
限りなく偉大な利益を
生み出されました。
願わくは不死の峯が宮中に建設され、
そこで我々が身体を浄め、
天の霞に上り、九天をさすらい巡り、
万民に恵みを垂れ、皇帝の万歳を祈り、
永く不死の楽しみを保ちたいと思います。
十月に左右の皇帝護衛軍三千に
百五十フィートの高さの峯を作るため
土を運ばせたとしていますが、
祭の七日間の休日も仕事をさせ、
全ての兵隊が恨んで道具を持ち上げ、
一斉に声を上げた声に恐れをなし、
絹三巻と三日の休日を与えたそうです。
皇帝は両軍の指揮官達にも労働させ、
何の理由もないのに指揮官の一人を
射抜いて殺したと記しています。
工事が終わると皇帝は官僚達に、
恐ろしい命令を下したそうです。
人々が土を運んだ後の窪みは大層深く、
人々を恐れさせ不安にする。
朕は再びそれを埋る事を希望する。
峯に犠牲を捧げる日に、
汝らは峯を尊敬するために
精進料理が行なわれると偽り、
都の両半分の僧尼をすベて集め、
左軍で彼らの首をはね、
それで穴を埋めよ。
円仁は現場にいた訳ではないのに
かなり詳しい記述がなされますが、
彼はどこからこれらの情報を
仕入れる事が出来たのでしょう。