皇帝と不老不死

円仁は聞いた話として、
皇帝が道士に向かって、
朕は二度朕は峯に登ったが
誰も不死に到っていないのは
何故かと聞いたと伝えます。

道士たちは国に仏教が道教と
並び行なわれているから
不死への道を妨げていると
仏教に責任転換をした事を
書き残していますね。

皇帝が二度目に峯に登った時、
峯の頂で一人の音声人(歌手)に
左の近衛軍の将軍楊欽義を
峯から突き落とせと命じると
歌手が反対され従わな理由を
尋ねた事が記されています

歌手は将軍は国家の枢要な重臣で、
理由なく突き落とせない事を告げると、
皇帝は彼の背に鞭二十回を与えたと、
凶刃じみた話をしていますね。

武宗が愚かなだけでなく、
道教も愚劣な宗教として
表現されていますが、
玄宗も仏教を嫌い道教を好む
皇帝だった事が知られています。

ただ玄宗は聡明な皇帝とされ、
後に密教を保護している事から、
仏教そのものを嫌った訳では
無かった事になりそうです。

玄宗の頃に鑑真が幽閉されたのは
阿育(アショーカ)王寺とされ、
彼の仏教を小乗として蔑んだ
大乗仏教を嫌ったのでしょう。

玄宗の時代からそれ程遠くない
武宗の仏教嫌いの背景には、
玄宗からの流れが存在しても、
当然と言える話でしょう。

不老不死と言えば徐福にも
密接に関わって来るのですが、
ここは余りにも深い領域で、
簡単に書く事は出来ません。

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