会昌の廃仏が起こった840の前、
820年~840年代の唐では、
牛李の党争が起こっていますが、
この党争には武則天の影響の濃い
宦官の力の廃除が関係します。
宦官は去勢されて宮仕えした
男ならヒュンとしそうな
えげつないシステムですが、
則天武后の頃から勢い得て、
玄宗期には三千人以上も存在し、
高位を持つ者も出たとされます。
武則天は男を取っ替え引っ替え
好き勝手にやったとされるので、
去勢した方が都合が良かったのか、
政治の私物化も極まれりですね。
これで弥勒菩薩の生まれ変わりを
自称したと言うのですから、
中々に図太い話ではあります。
安史の乱後の律令制崩壊期には
中央で禁軍の統率権を握り、
八世紀末か置かれた枢密使には
宦官だけが任ぜられています。
軍事の謀議に加わっており、
皇帝に密着して権勢を振るい、
皇帝の意志を宰相に伝えます。
地方では監軍として藩鎮権力を
監視する役となっていますが、
国を支配する勢力になった事を
伺う事が出来ますね。
第十二代穆宗(在位八二〇〜八二四)から
唐が滅亡する直前に立った第十九代の
昭宗(在位八八八〜九〇四)までに
八人の皇帝が擁立されてはいますが、
第十三代の敬宗を除いた全ての皇帝が
宦官により擁立されたと言います。
敬宗も在位二年で宦官に殺されており、
唐末には宦官は定策国老と呼ばれ、
皇帝を擁立した元勲と形容されます。
皇帝は門生天子と呼ばれた事から、
宦官の試験に及第して皇位に就いた
悲しい存在と言われていたようです。
武則天はかなりの好色家であったので、
去勢した美男子を大勢侍らせる事を
好んで行っていたのか不明ですが、
武則天の頃から勢力を得たのなら、
彼女が保護した一神教との関わりも、
視野に入れざるを得ないでしょう。