唐王朝では貴族や高官の息子が
親の推薦で官僚になれる制度があり、
科挙試験で官僚になった者達との
対立が起こったとされています。
牛僧孺と李宗閔の二人の受験生が
論文で時の宰相の政策を激しく批判、
二人は優秀な成績で合格するも、
地方に左遷されたと伝えられます。
しかし中央政界に戻った後には、
試験に合格した優秀な人達の
リーダー的存在になります。
この二人が論文で批判した
宰相の息子であった李徳裕は、
宰相になった後に彼らに対し、
科挙試験での不正の責任を
李宗閔に押し付け地方へ飛ばし、
復讐を成し遂げたとされます。
後に李宗閔は復職した時に
李徳裕を地方へ飛ばした事で、
二つの陣営が四十年に及ぶ
政権争いを起こしたそうです。
これで見ると李徳裕は既得権側の
悪辣な人物として描かれますが、
そうとは言い切れない話が散見し、
研究を要する話となっています。