唐代の科挙と武則天

牛李の党争を考える上での
根本史料とされている文献は
『旧唐書』・『新唐書』・
『資治通鑑』とされています。

これらの史料の信憑性は
高い物とは言ない物で、
全て後世の作成であり、
同時代史料ではありません。

残された記述だけ見ると、
試験に通った優秀な人材と、
既得権側との争いとして
捉えられる争いなので、
李側が悪者の文脈です。

しかしここで行われた
科挙試験の内訳を見ると、
則天武后が始めた事が
気になる所ではあります。

武則天が宦官勢力を拡大させ
唐の政治を悪化させたなら、
この科挙試験も唐の政界に
都合の良い人材を送り込む
策謀で始められた可能性も
皆無ではないでしょう。

この側面から見てみると、
牛李の党争は唐の政界と、
武則天側の派閥との争いの
要素が見えて来そうです。

武則天の影響を排除した
玄宗ではあったものの、
その戦いは後にも継続し、
唐を蝕んだのでしょう。

この周辺についての詳細は
行基の本に書いてありますが、
橘逸勢編は行基の続編ですね。

李側を悪者とするのは
一方的な評価であり、
会昌の廃仏もこの流れで
解釈していくとすると、
遥かに規模の大きな話に
なって来る事になります。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする