唐の宦官とマニ教徒

李徳裕の『会昌一品集』巻二の中に、
「幽州紀聖功碑銘」が存在します。

回紇が首都長安で壮麗なマニ教寺院を建立し、
ここを中心に政治上の勢力を築いており、
支那人の利益を求める者がこれと結托して
種々の弊害を流しているのにも関わらず、
唐から有り余る支給を受けていると言います。

これに対し李徳裕は帰化城(綏遠)から
黄河の北岸地方の防備を厳重にし、
回紇が服属させていた奚・契丹などの
今の熱河地方に居住した部属に対して
支配権を要求し続ける事に対しても、
北京に本拠をもつ節度使張仲武に命じ
奚、契丹への漢族の支配を充分に
保つ事を命じたとされています。

李徳裕は回紇の残党の侵略を廃除し、
回紇を亡ぼせる黠戛斯との間に
友好関係を保った事により、
回紇の分散を成功させています。

李徳裕を一方的な悪者にしたいのは、
回紇に通じる勢力の可能性が高く、
回紇が持ち込んだマニ教の廃除こそ、
会昌の廃仏の発端とされています。

武則天の保護した大雲寺も
マニ教寺院とされており、
官僚を政界に送り込むため
科挙試験を導入したとすれば、
科挙出身者にもマニ教徒が
混入していたのでしょう。

武則天の頃から盛大となった
宦官がマニ教徒であったかは
史料が少ない状況ですが、
仇士良が保護した仏教も、
仏教に偽装したマニ教の
可能性は高そうです。

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