会昌の廃仏は武宗が死に、
李徳祐が中毒死した事で
終演したとされています。
次の皇帝となった宣宗は、
治世に一定の成果を挙げて
小太宗と呼ばれたとされます。
在位は846年4月22日で、
武宗が危篤となると、
宦官の馬元贄により
皇太叔に任命されて、
武宗の死と共に即位した
異例の皇帝とされます。
しかし戦乱で実録が失われ、
業績の詳細は分かりません。
宣宗は即位したその日に
李徳裕を解任して降格させ
地方に飛ばしたとされます。
朝廷から李徳裕派を排除し、
地方に飛ばされていた
牛僧孺派を採用した事で、
人事を入れ替えたそうです。
道士の趙帰真を処刑とし、
他の道士達も流刑にする事で、
会昌の廃仏を終わらせます。
甘露の変で処刑された者達の
冤罪を晴らしたとされ、
穏便な方法を用いる事で、
宦官の力を削いだと
伝えられてはいます。
しかし、これらの改革は
宦官に有利なものであり、
一神教の排除運動には
失敗した事になります。
これ以降のアジア全体の
動きを見ていく事で、
不穏な動きの痕跡を
見つける事が出来ます。
『編年綱目』によると、
高麗の太祖王建の祖父である
王帝建が宣宗の庶子とされ、
高句麗の末裔である高麗の王に
関わった人物となります。
『編年通録(朝鮮語版)』
『高麗史節要』によると、
祖父が粛宗とされていますが、
高麗の始祖を唐の皇帝とを
何故結びつけたのでしょうか。
高麗は高句麗の末裔を自称し、
大乗仏教を信奉する一神教の
国家であったとするのなら、
かなりの闇が存在しますね。
ユダヤ人の定義を考えると
民俗学的な物とは関係なく、
ユダヤ教を信奉すれば
ユダヤ人となりますが、
宗教的な背景があったかは
良く分からない所です。
常に言える事なのですが、
歴史は少ない史料から
必要な情報を見つけ出す
地道な作業が求められます。
かなりのヒューマンパワーが
要求される行為であるので、
私一人で行うよりも、
研究の流れを出す方が、
遥かに価値が高いですね。
何でも私がやるよりは、
少しは課題を残した方が、
色々と良い気もしています。
宦官側の勝利で終わったと
記述されている廃仏ですが、
本当に終焉したのでしょうか。