長安での円仁の仏教修行を
バックアップした仇士良は
宦官であったとされますが、
会昌の廃仏の数年前に、
唐で宦官に纏わる大事件が
起こったとされています。
唐の第17代皇帝・文宗と官吏が
宦官を誅殺しようとした事件は、
甘露の変と呼ばれていますが、
仇士良は835年の甘露の変にも
登場している重要人物です。
宦官の王守澄と陳弘志は
第14代皇帝・憲宗に虐待され、
憲宗を暗殺し憲宗の第三皇子の
李恒(りこう)を擁立する事で
次の皇帝の穆宗に即位させるも、
三年で崩御したそうです。
憲宗は丹薬に溺れたと
伝えられている所を見ると、
道教に踊らされた愚帝として、
会昌の廃仏を行った武宗と
同じ文脈で語られています。
次の皇帝も即位後二年で崩御、
王守澄は文宗を擁立しますが、
文宗は王守澄に感謝をせず、
憲宗を暗殺した王守澄を恨み、
排除を目論んだとされます。
文宗は礼部侍郎・李訓と
太僕寺卿・鄭注に相談し、
仇士良と王守澄を対立させ、
二人を排除する計画を立てます。
仇士良は憲宗に仕た事から、
憲宗を暗殺した王守澄を恨み、
仇士良と文宗の利害は
一致していたものの、
文宗は宦官を抑制するため、
仇士良と王守澄の排除を進めます。
鄭注を鳳翔(陝西省宝鶏市)の
節度使に任命して兵を持たせ、
冤罪をかけられた王守澄は
毒酒を飲んで死亡します。
王守澄の葬儀に参列する仇士良を
鄭注が兵で攻撃する予定の所、
李訓が手柄を独り占めしたくなり、
宦官全員を排除するため
吉兆の甘露が降ったと言って、
宦官全員を集めたとされます。
皇帝が善政を行った時は
天が甘い露を降らすとされ、
瑞兆の真偽を宦官全員で
確認する事になっていた物の、
幕に兵が隠れている事が発覚し、
仇士良は文宗を連れて逃亡。
文宗は自ら立てた計画と言えず
李訓と鄭注を処刑したものの、
仇士良は都に戻ると文宗を幽閉。
後に武宗を皇帝に立てると
宦官を排除する動きをし、
廃仏を行ったとされます。
この流れの上で仇士良が
円仁の長安での仏教修行を
バックアップしたとされ、
この時に会昌の廃仏について
日記に記したとされています。
となると円仁の長安での
仏教修行とされる物は、
仇士良の意向が深く
関わっている事になり、
円仁がなぜこの仇士良と
関わったかが問題ですね。