『全唐文』巻七百九十を見ると、
「内侍省監楚国公仇士良神道碑」に
仇士良の詳細が記されています。
甘露の変の後に朝廷で功が審議され、
中尉・知省事の職務はそのままで、
特進・本衛上将軍を加えられた後に
驃騎大将軍にまで昇進しており、
開成五年(840)に開府儀同三司を
左衛上将軍を加えられており、
楚国公に封ぜられたとされます。
翌年には観軍容使に昇進し、
左右三軍の指揮を兼任しており、
会昌の廃仏までの進級度合いは
恐ろしいレベルですね。
幸福の中に災いが潜む事を
心配したと記されており、
過大な昇進に引退を考え、
843年に病が治らなず、
実務の無い職に移ろうと
内侍監となったものの、
将軍・知省事を継続。
その後たびたび辞職を願い、
その年の六月二十三日に
広化里の私邸で死んだと
伝えられてはいます。
しかし会昌の廃仏で大規模な
軍事的衝突が存在したなら、
神策軍を率いる仇士良が、
この戦いで死んだ可能性が
ゼロでなかった事になります。