宦官は則天武后の頃から
勢いをつけたとされ、
玄宗期には三千人を越す
宦官がいたとされています。
この中から高位を持つ者が
何人も出てきたとされます。
安史の乱後の律令制崩壊期には、
中央では禁軍の統率権を握り、
地方では監軍として藩鎮権力の
監視役となったとされます。
八世紀末に枢密使が置かれて
宦官だけが任に就いたとされ、
皇帝の意志を宰相に伝え、
軍事の謀議にも加わる等の
権力拡大を達成したそうです。
第十二代穆宗(在位820〜824)から
唐が滅亡する直前の第十九代皇帝の
昭宗(在位888〜904)までに、
八人の皇帝が擁立されています。
宦官による擁立されなかったのは、
第十三代敬宗ただ一人とされますが、
敬宗も在位二年で宦官に殺されます。
宦官と武則天との関係を見れば、
武則天側の宦官が数多く存在し、
彼女の影響の排除に成功した
玄宗期に排除されたものの、
権力奪取を狙っていたとしても
不思議の無い話になります。
宦官の仇士良が仏教に関わるのも、
武則天の保護した三つの一神教と、
大乗仏教を偽装した一神教に
深く関わっていたのであれば、
唐で権力を握った宦官勢力は、
宗教勢力でもあったのでしょうか。
宦官の資金源が金融業を行う
一神教寺院であったとすれば、
対策を行う事は必須でしょう。