840年代の新羅と日本

宮田麻呂は平安前期の官僚で、
筑紫守であった時に張宝高との
密交易を行っていた罪により
職を解かれた後も交易を続け、
承和十年(843)に新羅商人と
氾濫を企てたとの讒言を受け、
伊豆に流され死んだそうです。

この少し前には橘逸勢も、
伊豆に流罪にされてる最中に
三ヶ日で死んだとされますね。

張宝高は天長元年(824)に
清海鎮大使に任ぜられており、
半島西南海域の莞島に置かれた
清海鎮を拠点に海賊を取り締まり、
唐や日本との海上貿易も行います。

当時は日本と新羅の国交が絶たれ、
張宝高も承和七年(840)十二月に
使者を大宰府に送り朝貢を申し出ても
認められなかった事が原因となり
密貿易をしたとされていますが、
私はかなりの疑問を持っています。

唐に渡った円仁らの遣唐使僧は、
張宝高の新羅船に助けられる事で
帰国したとされていますが、
円仁らが新羅と関係を持った事を
咎められた痕跡は見当たりません。

遣唐使は膨大な国費を投入する
一大国家プロジェクトであり、
国に多大な価値を持ち帰る
遣唐使の帰国を助けたのなら、
国から礼があって然るべきです。

日本書紀から新羅を悪く言う
流れが続いてはいますが、
朝廷側からは認められない
体裁に関わる程度の話なら
スルーしても良い話でも、
問題はこの時期にあります。

840年代初頭の唐において
会昌の廃仏が行われており、
これが新羅や日本にまで
影響を及ぼした可能性を
考慮する必要があります。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする