張宝高の暗殺

張宝高は神武王を立てますが、
新羅王に叛いた事で殺されたと
伝えられているようです。

閻長による暗殺の記述は
『三国史記』新羅本紀の
文聖王八年(846)条にあり、
『三国遺事』の紀異・
神武大王閻長弓巴条には、
神武王代の事と記されます。

『三国史記』は張宝高が彼の娘を
王の次妃になる事を拒まれた事で
反乱を起こしたと伝えますが、
この文聖王八年(846)の反乱が、
『続日本後紀』承和九年(842)の
正月の記事と矛盾しています。

新羅人・李少貞(りしょうてい)が
筑紫大津(博多)に来航して、
「宝高、去年十一月中に死去」と
伝えたとされているのですが、
これだと841年没になりますね。

李少貞らが来航した目的は、
清海鎮の残存勢力が日本に向かう
可能性があることへの報知と、
生前の張宝高が日本に送った
使者・交易用の財貨の返還要求の
二件を伝える物とされています。

となると宮田麻呂の死や承和の乱は、
張宝高の勢力と関係する可能性が
浮上して来る事になりますね。

新羅の勢力が日本に攻めてくる
危機的状況を伝えていますが、
私の行基の本を読んでいれば、
この類いの話は以前からあり、
またかと言う感じでしょう。

この時期的な記述の違いは、
各国の状況に関わった物と
推察する事が可能ですが、
私が答えを言うより各人で
考察する方が楽しいでしょう。

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