新羅との交流の継続

『続日本後紀』は張宝高が841年の
11月までに死んだとしていますが、
承和七年(840)に日本と新羅の
通交が拒否された後であっても
翌年には民間の交易が許可され、
北九州の官人や入唐僧などと
深い関与があったと記されます。

新羅との国交は断絶しても
民間での動きが継続したと、
完全に関係性を断つ事が
出来なかった表現ですが、
例の宮田麻呂の密貿易も
この周辺とされますね。

841年と言えば会昌の廃仏が
開始された頃になりますが、
『続日本後紀』は会昌の廃仏と
張宝高の日本への影響を、
断ち切る記述となっています。

しかし838年の遣唐使に纏わる
日本と新羅の関係等を見ると、
この周辺に様々な矛盾が
存在する事が見えてきます。

そして問題なのが842年に
承和の変が起こされた事で、
万が一にも張宝高の死が
捏造であったとすれば、
橘逸勢は新羅と関係した
軍事問題に関与しそうです。

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