儒教はよく徳治主義(とくちしゅぎ)と呼ばれますが、
為政者の徳により人民を治めるべきであると
孔子が語ったとされています。
「徳治主義」が用いられたのは蟹江義丸の『孔子研究』(1904年)、
高瀬武次郎の『支那哲学史』(1910年)などからであり、
日本では宇野哲人、中国では陳安仁(1890年-1964年)により
広められた言葉とされています。
明治が1868年、昭和が1926年から始まったので、
かなり最近になって用いられ初めた言葉で、
江戸時代には使われていなかったのが分かります。
イギリスが植民地を拡大し開国を迫った後の用語なので、
西洋による東洋の支配に都合の悪いものとして
東洋の強みに間違ったレッテルが貼られたのでしょうか。
儒教が法律を軽視し精神論のみに終始するかのように
部分的な引用のみで漠然としたイメージが持たれていますが、
原文全体に目を通すと何が書いてあるのでしょうか。
儒教の経典である書経・春秋左氏伝・礼記などには、
法律や裁判についても数多く記されていて、
人を裁く時の心構えにより有事に人がついていくかの議論等、
法律や軍事についても様々な角度から語られています。
孔子は訴えられたら裁くのは他と変わらないが、
訴えそのものをなくそうと語っていますが、
不摂生で病気になれば治療が必要でも、
病気になりにくくする事はできます。
校則を厳しくしても問題が治まらない学校もあれば、
不必要に規制をしなくても校風の良い学校もあります。
一時的に市場シェアを席巻したとしても、
驕りで見る影もなく落ちぶれる企業は現代でもあります。
現在に始まった事ではなく昔から似たような話は多く、
歴史から学ぶ重要性は今でも変わりませんが、
精神論や徳治主義などのレッテルで分かった気になり、
本来の価値が失われるのは大きな痛手です。
日本の教職課程は自動車学校程度の
粘れば取れる程度のカリキュラムであると
非難される事がありますが、
自分はやることをしていないのに棚上げして
上から一方的に説教を垂れたり、
権限をかさに中身のない行為をしていても
成果が上がらないのは明白でしょう。
肩書きがあっても中身が足りなければ有害です。
太極拳は道理にそった身体の運用をしますが、
道徳も道理・天理にそった運営をする事であり、
価値観の押し付けではありませんでした。
アメリカでトランプ革命の進行中の現在、
江戸時代や徐福の時代にまで遡る日本の優れた文化を
もう一度見直してみる事で得られるものは、
想像を越えたものがありそうです。
徐福に孔子の影響があるのであれば、
銅鐸時代は儒教の正当な見直しにより
政治・経済・祭祀・軍事などに理解できる部分が多くあり、
三遠の古代王朝の姿もそこから見えてくるものがあり、
日本やアジアの強みを取り戻す事にも繋がるでしょう。