律令制の始まりと終わり

奥三河で花祭が行われる契機となった
壬申の乱を見てみましょう。

天智天皇と同母弟とされる大海人皇子(後の天武天皇)は、
天皇の在位中は天皇を補佐し次期天皇候補とされていたものの、
天智天皇が息子の大友皇子を時期的天皇に指名した事で、
672年の天智天皇崩御を機に皇位継承をめぐる争いが勃発。
古代最大の内乱とされ壬申の乱と呼ばれています。

この国内を二分する戦いの勝者である天武天皇は
八色の姓(やくさのかばね)、古事記・日本書紀の編纂、
飛鳥清御中原令の編纂、神道の形成、国家仏教の形成、
藤原京の建設などを為したとされています。

氏族ごとに存在した臣(おみ)・連(むらじ)等の身分が
八色の姓により序列化されて身分の固定化がなされ、
天皇中心の中央集権化が進みました。

唐のような律令国家を目指すために
飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい)の編纂を命じ、
701年制定の大宝律令の前身となったとされています。

中国の律令制は科挙と呼ばれる試験を通れば
身分に関係なく官僚になれたので、
一流の官僚を育成する儒教が尊重されましたが、
日本はその意味で律令制と呼ぶには
相応しくないのかも知れません。

天皇を天照大神の子孫とする体系的な整理はこの時期になされ、
壬申の乱で天皇が伊勢の神宮に向かい必勝祈願をして勝利したので
伊勢の神宮が神社の頂点に据えられたとされています。

壬申の乱を契機として本格的な律令国家が構築され、
伊勢内宮を頂点とした現代にまで続く
日本国の流れが出来たのはこの時期です。

律令制自体は崩壊しましたが、
法律や租税などは継承され、
壬申の乱が現代に至るまでの
古代日本の大きな分岐点となっています。

大海人皇子が海人である安曇族の王であり、
壬申の乱により攻め込まれた先住民族は山奥に隠れ、
隠れ里で継承されてきた邪馬台国祭祀の鬼道が
花祭となったとする研究を提示してきましたが、
日本の本来の在り方は壬申の乱よりも前に
遡る必要があるのでしょう。

江戸から明治となり社会システムが一変したように、
今後の日本も大きな変動が起こる可能性が高いです。
現代に至るまで重税が課せられ続け、
ベーシックインカムの導入も遅々としていますが、
表層的なシステムの改善ではなく、
律令制をベースとした社会体制そのものが
変革を迫られる時期が来るのかも知れません。

壬申の乱で大きく変革されたのは政治体制のみでなく、
他にも様々な領域に関わっています。
それらも見ていく事にしましょう。

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