張宝高と会昌の廃仏

836年に新羅の興徳王が崩御した後、
金城(慶州)で王族間の後継争いが
起こった事が伝えられています。

これに敗れた金祐徴は張宝高に
支援を求めて五千の兵を得て、
閔哀王を討って神武王として
即位する事が出来たそうです。

後に張宝高は感義軍使に任命され
食邑二千戸を賜ったとされますが、
宝高は海商に止まらず国軍にも
関与していた事になります。

神武王は王位簒奪の成功の暁に
張宝高の娘を王妃に迎える約束を
とりつけてはいたものの、
即位後六ヶ月で急死します。

文聖王が即位すると張宝高に
鎮海将軍の官位と礼服を授け、
先王の盟約に従い張宝高の娘を
王妃に迎えようとしたところ、
群臣が彼の身分が卑しいからと
反対をして取り止めとなります。

これを恨んだ張宝高は846年に
反乱を起こして暗殺されたと
伝えられてはいるのですが、
この周辺の記述を探っていくと、
文献により矛盾が生じます。

846年は会昌の廃仏が終わった
年として知られていますが、
綺麗にリンクしている事が
裏を感じさせてきますね。

836年の新羅王崩御の二年後に、
小野篁が遣唐使に任命されるも、
命を破棄して流罪にされたと
伝えられてはいるものの、
この周辺には謎が存在します。

新羅側が語ったとされる内容が
日本側の記述と異なっており、
その背景が気になる所です。

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