今毛人の軍事行動

早良皇太子や大伴家持が
長岡京遷都で活躍していた
藤原種継の暗殺を企んだと
伝えられてはいるのですが、
数々の疑問が提唱されています。

『水鏡』下・桓武天皇条には、

事ノ発(おこり)ハ、
御門ハ常ニコゝカシコニ行幸シ給テ、
世ノ政ヲバ此東宮ニノミ預奉リ給然バ、
天応二年ニ佐伯今毛人ト云シ人ヲ
宰相ニ成サセ給タリシヲ、
御門帰ラセ給タリシニ、
此種継、佐伯ノ氏ノカゝル事ハ未(いまだ)
侍(はべら)ズト御門ニ申シゝカバ、
宰相ヲ取給テ三位ヲセサセ給テアリシヲ、
此東宮ヨニ口惜キ事ニ覚テ、
種継ヲ勅勘シ給へト申給シヲ、
御門ムヅカリ給テ、更ニ聞給ズシテ、
此後東宮ニ政ヲ預ケ奉給事無成ニシヲ、
安カラズ覚シテ、
其隙ヲ年比(としごろ)伺給ヘルニ、
ヨキ折節ニテ、カクハシ給へルナリケリ。

と記されていますが分かり難いですね。

桓武天皇が行幸している時に
政治を任せられていた早良は、
佐伯今毛人を参議に任じたところ、
種継がこれに反対したそうです。

桓武天皇も種継の意見に従い
今毛人の参議登用を取り止めると、
早良は種継を勅勘する事を要求し、
却下され権限を奪われたので、
これを怨んだ早良は種継暗殺の
機会を伺っていたとしています。

しかし今毛人が空海と関わる
平城天皇サイドの人物であれば、
軍事行動がなされていた歴史が
隠蔽された可能性が出てきます。

大伴家持は軍事貴族の大伴氏で、
東北に行っていた話は捏造で、
長岡京の勢力と戦争をした
痕跡の抹消が行われたとする
仮説を立てられそうですね。

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