会昌の廃仏と承和の変

承和七年(840)の淳和天皇崩御の後に
承和九年(842)に嵯峨天皇も死去し、
二日後に平城天皇の皇子の阿保親王が
嘉智子に伴健岑と橘逸勢の謀反を記した
密書を送った事が伝えられています。

嘉智子はこれを藤原良房に送り、
仁明天皇に奏上させた事から。
関係者が逮捕されたそうです。

恒貞親王が太子から廃され、
大納言藤原愛発・中納言藤原吉野・
参議文室秋津の左遷が宣下され、
伴健岑と橘逸勢は流罪とされます。

一方、良房は大納言に昇進し、
東宮坊の官人が全員左遷された中に
式家の者が五人含まれていたので、
良房の陰謀とも言われています。

ここから良房が幼少の清和天皇を
手玉に取る事で藤原氏全盛の世を
作っていく流れになったとされます。

しかし承和の変が起こったのが
会昌の廃仏と関係していたなら、
この周辺を徹底的に洗い直す
必要性が出て来る事になります。

橘嘉智子に関しては書きましたが、
彼女に密告した阿保親王にすらも
秘められた謎が存在する可能性は、
非常に高い物となるでしょう。

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