密告による犠牲者

阿保親王による密告には、
伴健岑らが嵯峨上皇の
死後の混乱に乗じて、
皇太子恒貞親王を奉じて
東国に赴き乱を起こそうと
画策していると記されます。

恒貞親王の側近は京外に追放され、
親王は皇太子の地位を剥奪され、
配流となった者は九十を越える
大規模な事件であったとされます。

『続日本後記』に記された犠牲者は、
四位一名・五位七名・六位十五名・
七位四名・八位一名の計二十八名、
配流は六十余人を数えたとされ、
逸勢の近親者であった右兵衛督橘永名・
右衛門少尉橘時枝・右馬大允橘三冬等は
七月二十日に自ら辞退したとされます。

しかし伴健岑の身分は著しく低い
東宮坊の带刀であったとされ、
陰謀の実行力があったのか、
阿保親王に親しく陰謀を語れる
立場にあったかも疑問です。

伴健岑は身分の低い立場なのに、
これだけの人数を巻き込む動きを
目論んでいたとされた事について、
様々な議論がなされています。

大伴氏は大伴家持が有名ですが、
万葉集に見える歌人のイメージが
色濃く残されている状態です。

行基の本の後の流れを見るなら
家持も取り上げる必要があり、
中々に骨が折れますね。

これだけ大規模な人数が、
軍事目的で関わったと
伝えられてはいますが、
本当に未遂なのでしょうか。

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