皇室の分離

弘仁十四年(823)に嵯峨天皇は
淳和天皇に譲位して上皇となり、
十年後に淳和天皇は嵯峨天皇の子の
仁明天皇に譲位したとされます。

淳和天皇の子の恒貞(つねさだ)親王は
皇太子となり次期天皇に据えられます。

嵯峨天皇と淳和天皇の間で、
各々の家柄から交互に天皇を出す
約束があったとされていますが、
ここに藤原氏が関わります。

藤原良房(よしふさ)は嵯峨上皇と
皇后・橘嘉智子の信任を得る事で、
仁明天皇の后に自らの妹の
藤原順子(のぶこ)を据えて、
道康(みちやす)親王が誕生。

道康親王は良房が恒貞親王を
即位させようとしているので、
何度も皇太子の辞退を求め、
嵯峨上皇から制止されたと
伝えられてはいます。

この道康親王を即位させようと
裏で謀っていた事を密告され、
流罪となったのが橘逸勢と、
伴健岑とされていますね。

嵯峨天皇は譲位した後に
院となったとされますが、
崩御と会昌の廃仏の時期が
重なっている事が問題です。

譲位後に天皇となった
淳和天皇から二系統の
皇統に分かれたとされる
伝承の真偽が問われます。

伴健岑は元は大伴氏ですが、
淳和天皇と密接に関わっており、
別の系統の王朝の戦いすらも
想定されうる状況にあります。

橘逸勢も橘諸兄に連なり、
諸兄の研究が必要です。

橘諸兄の詳細は行基の本に
詳しく書いておきましたが、
諸兄が行基と共に活動をした
先住民族の王であったなら、
逸勢もパッとしない経歴に
記述された裏が問題です。

行基の本で書いた話だけでは
後の歴史に繋がりませんが、
誰か研究しないか期待しても
出て来そうもありません。

ここまで書いた内容を見れば、
かなりの研究が必要な事は
理解出来ると思われますが、
他人に期待するには余りにも
高い山なのは確かですね。

ここまで来れば行基の本で
大風呂敷を広げた後始末の
見通しが立つと言う物です。

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