橘氏は改姓された後の呼び名で、
橘諸兄は葛城王と呼ばれた事を、
『行基菩薩とヘレニズムの復興』に
詳しく書いておきました。
橘の木は中国南部の原産であり、
田道間守が持ち帰った事が、
日本書紀の垂仁天皇の段に
書き残されています。
天皇命田道間守、
遣常世國令求非時香菓
(香菓、此云箇俱能未)
今謂橘是也。
田道間守至自常世國。則賫物也。
非時香菓八竿八縵焉。
田道間守於是泣悲嘆之曰、
受命天朝、遠往絶域萬里蹈浪、
遙度弱水、是常世國、則神仙秘區。
俗非所臻。是以往來之間、自經十年。
豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。
然賴聖帝之神靈、僅得還來。
今天皇旣崩。不得復命。
臣雖生之、亦何益矣。
乃向天皇之陵叫哭而自死之。
群臣聞皆流淚也。
田道間守、是三宅連之始祖也。
この程度の漢文であれば
大抵の意味は掴めるので、
頭の体操で読んで下さい。
この周辺については
『ええじゃないか』に
書いた覚えがありますが、
若干アヤフヤですね。
まあ橘の木が不老不死の神仙と
関係する事が書かれており、
徐福に通じる深層が垣間見えます。
常世神は邪馬台国の本にも
色々と書いておきましたが、
徐福王朝と邪馬台国の関係に
言及している人は皆無で、
困った状況にありますね。
行基と共に活動した橘諸兄が
葛城王と呼ばれていた事は
行基の本に書いておきましたが、
これ以外にも修験道に通じる
深層が存在した事も書きました。
橘逸勢も諸兄の系譜に連なる
修験者であったのであれば、
空海とも懇意であったでしょう。
逸勢が唐から持ち込んだのが
音楽と書だけと言う話は、
余りにも貧弱に過ぎます。
膨大な国会予算を投入して
空海と共に唐に向かわせる
資格を認められていたなら、
隠された功績があった事は
想像に難くありません。