二十年に一度の遣唐使船で
唐から帰国する予定であった
最澄・空海・逸勢達であったと
されてはいるようなのですが、
空海と逸勢は足かけ三年で
共に帰国しようとしています。
延暦二十四年(805)六月、
遣唐判官の高階真人遠成が
突然に唐来たとされますが、
その目的は不明とされます。
高階真人の一行と長安で会い、
この船で帰国したとされますが、
この時すでに帰国の決意を
固めていたと見られています。
『類聚国史』の中に記された
「為橘学生与本国使啓」に、
以下の内容が記述されています。
留住の学生逸勢啓す。
逸勢驥子の名無うして
青衿の後に預れり。
理須らく天文地理雪の光に諳にし、
金のごとくに聲し玉のごとくに
振って鉛素に縟(まだらか)にす。
然るを今、山川両郷の舌を隔てて、
未だ槐林に遊ぶに遑(いとま)まあらず。
且(しばらく)は習ふ所を温(たず)ね、
兼ねては琴書を学ぶ。
日月荏苒として資生都(す)べて尽きぬ。
此れ国の給ふ所の衣糧僅かに命を續ぐ。
束脩、読書の用に足らず。
(訓読は『日本古典文学大系』準拠)
逸勢は唐語に通じないために
天文地理の学を大学で学べず、
兼ねて琴・書道を修めていたが、
日月が過ぎて資金も尽き果てた。
この国の給与は生命を繋ぐだけで
礼物や読書の費用には足りないと、
情けない事を言っています。
逸勢はこれに続く文章の中で、
才能も無く資金不足を理由に
帰国したいと堂々と語り、
琴に秀でる事が出来たので、
天皇に聞かせたいと語ります。
遣唐使は拒否すれば死罪となる
重責を背負った役職であり、
膨大な国費を無駄に費やし
音楽と書道だけしか収穫の無い
無能な人が天皇に媚びへつらう
印象を与える記述ですね。
余りにも情けない人物像が
後世に伝えられていますが、
この様な人物が乱の首謀者と
扱われる事に違和感があり、
誰も突っ込まないのが
逆に不思議でなりません。
更に空海と一緒に渡唐し、
共に帰国した理由が、
この程度であったはずが
無いだろうとは思います。
と言うか平将門の斬られた首が
関東に飛んで行った伝承すらも
疑問が持たれて来なかったので、
かなりガバガバな状態ですね。