中国史上唯一の女帝である即天武后は、
唐の第三代皇帝・高宗の皇后となった後、
息子に皇位に据えて実権を握り、
四人の息子をすげ替えた後、
帝となって国号を唐から周へと改め、
批判をしたものを全員追放や処刑にしました。
匿名での密告を推奨し、
裁判所の役人は『酷吏』と呼ばれ、
いかに罪人を作り上げるかに腐心し、
様々な拷問を行いました。
日本との関係がどの様なものであったか、
年表を対比させて調べてみましょう。
高宗に気に入られた後の永徽六年(655年)、
王皇后と簫淑妃を幽閉・惨殺して高宗の皇后となり、
病気を煩い気が弱い高宗を影で操り始め、
顕慶五年(660年)に新羅の請願により百済を滅ぼし、
倭国・旧百済連合軍との白村江の戦いにも勝利。
政治の独占を嫌った高宗は竜朔三年(663)頃に
皇后を廃そうとして失敗し唐の実権を掌握されます。
690年(載初元)年、武周革命を起こして自ら聖神皇帝と称し、
帝位に登り詰めた後に705年に死亡するまで帝位を守り続けました。
日本では663年に半島の白村江に出兵して大敗、
国内最大の乱と呼ばれる壬申の乱は672年に起こり、
686年の天武天皇崩御の後、690年に持統天皇が即位したとされ、
日本と中国の動向が密接にリンクしている事が分かります。
武則天は以下のように元号を頻繁に変更した事でも有名です。
證聖、天授、光宅、垂拱、永昌、載初、天授、
如意、長寿、延載、証聖、天冊万歳、万歳登封、
万歳通天、神功、聖暦、久視大足、長安
これはほぼこじつけですが、この元号のなかに神功とあり、
日本にも三韓征伐をし応神天皇を生んだ女帝の神功皇后がいます。
日本の女帝の神功皇后・推古天皇・皇極天皇・斉明天皇・持統天皇には
総じて多くの謎がついてまわっています。
神功皇后には卑弥呼説、推古天皇の摂政・聖徳太子には実在への疑問があり、
皇極天皇・斉明天皇は同一人物ですが、天智・天武天皇の母とされます。
中国から「倭」と呼ばれていたのを、
「日本」に改めたのも則天武后とされます。
東大寺の大仏も即天武后と関係があります。
奈良の大仏「毘盧舎那仏」は華厳宗の本尊ですが、
この仏教の一派は中国で興ったもので、
唐の高宗と則天武后は毘盧舎那仏の大仏造営を発願し、
大仏の顔を即天武后に似せて造らせたとされ、
大仏造営と諸国に国分寺を造る仏教政策は
則天武后を真似たものであったと、
鎌田茂雄氏は『仏教の来た道』で語っています。
705年の即天武后の死後、国の名は唐に戻りますが、
復位した妃韋后は中宗を毒殺して権勢を振るい、
李隆基がこれを殺害する事で動乱に終止符がうたれます。
壬申の乱にまつわる国内を二分する戦乱が起こり
古事記・日本書紀が発布された時代の
日本と中国との関係はあまり指摘されていません。
一時的に九州も中国の統治下に置かれて大宰府は都督府と呼ばれ、
日本の古代王朝も歴史から抹殺されたのでしょうか。
コメント
則天武后のお話です
個人的には 「武則天」の方がしっくりするような 姓と名が逆転しているような気がします
「武」の方々は「隋」楊氏「唐」李氏王朝より前の王朝までさかのぼる歴史があったのでは?「武周時代」は660年頃から影響があったと思うと いろいろ思うところです
禅譲は親戚で王朝が交代した事を現すのですか?
歴史は奥が深く 気持ちも入る学問ですから 俯瞰することを学んだ上で臨まないといけない 最近 そんなことを思います
則天武后と呼ぶのは日本の呼び名のようですね。
中国では則天と呼ばれていたようです。
ここの辺りはまだ色々と書ける事がありますが、
まだ情報が固まっていないの保留中です。
返信を頂いていますことを只今知りました 礼をせずそのままでいたことをお許し下さい IT音痴なんです
古代日本は… 倭は… など誇りにすれば楽しみになります。
他を卑下することに必死な風潮にならずに終わることを希求し 真の姿を垣間見 戦乱以外は平和であった事を知らしめる事が要諦だと つい熱く書いてしまいました
大切なお仕事ですから おからだたいせつになさってください。