達逸勢の帰国後の経歴は、
文徳実録(嘉祥二年五月十五日)に
歸來之日、歴事數官、以年老羸病、靜居不仕。
と数官に歴事した後に老いて仕えず、
パッとしない人物として記されており、
どの様な官職に就いていたかの記述は
殆ど残されてはいない状況にあります。
五位以上の官職は記載されおり、
六位であった為に書き残されず、
大した人物ではなかったと言う話に
信憑性を与える根拠となっています。
『続日本後紀』(承和七年四月二日)に、
以從五位下橘朝臣逸勢爲但馬權守
と但馬守となった事が記されますが、
但馬守は従五位下相当なので、
ここでやっと書き残されたとも
見る事は可能ではあります。
この時の年齢は五十九歳と推定され、
それまで職に就いていなかった人物が
但馬国で官職に復帰した後に、
東国でクーデターを起こそうとした
訳の分からない流れになっています。
本当にこの様な経歴の人物が
大それた陰謀を画策した事で
流罪にされたのかは疑問ですが、
彼の経歴の謎に踏み込むには、
彼と共に遣唐使となった空海が
登場して来る事になります。