空海の橘逸勢伝

遣唐使として唐に留学し、
空海と共に帰国したとされる
橘逸勢の帰国後の消息は、
殆ど分かっていない状況です。

『文徳実録』の嘉祥三年(八五〇)
五月十五日条項の記述には、

帰来之日歴事数官。静居不仕。

とされているだけなので、
どの様な官を遍歴したのかは
全く記されてはおらず、
『続日本後記』が三十五年後に
但馬権守になったと記すまでは、
全く謎に包まれています

高野山南院所蔵の古書から
写した中に逸勢が記され、
驚くべき内容となっています。

『弘法大師御伝』巻下の中の
「御筆精霊」に記された内容は、

南方大師橘逸勢ー弘仁蔵人前中弁入居男ー

と記されている事が確認出来ますが、
弘仁の記された蔵人前中弁入居男は、
入居が逸勢の父の名とされるので、
逸勢を指している可能性があります。

『日本逸史』延暦十九年二月戊寅条に
「左中弁従四位下橘朝臣入居卒」とあり、
卒時に左中弁となっていたので、
前に右中弁であったと言う事でしょうか。

六位蔵人非蔵人、重代者補之、雖重代放埒者不聴之

と蔵人について記されていますが、
品行の正しい者しか採用されない
かなりの重職とされています。

天皇が機密文害や訴訟のために
側近の藤原冬嗣・巨勢野足を
殿上で用いた事が蔵人の起源で、
常に天皇に近侍する職とされます。

後に詔勅の伝宣、宮中の諸儀式、
天皇の装束、御膳等日常の雑事にも
関わるようになって行った事から、
殿上における一切の事に携わる
職務となった事が伝えられています。

蔵人を経た者は枢要な地位に昇れ、
平安時代には官吏の登竜門とされる
名誉誉とされていたそうです。

橘逸勢が蔵人であった事を
同期の空海が記しているなら、
逸勢のパッとしない経歴は、
捏造された可能性が高そうです。

蔵人頭は参議に昇進するのが常で、
後任は五位蔵人の中から多く選ばれ、
六位で昇殿を許された六位蔵人は
五位蔵人に昇進して参議となれる
エリート中のエリートですね。

蔵人として長年勤める事により
極臈(きょくろう)に至ると、
必ず五位に叙して他官に移る事に
なっていたとされていますが、
逸勢に関する史料は存在しません。

逸勢が六位蔵人を十年勤仕したとすれば、
極臈に至った弘仁十二年(821)には、
他の職に転じた形跡は存在していません。

『文徳実録』には静居不仕と書かれ、
承和六年に但馬権守になったとされ、
六位蔵人を経たエリートとしては、
余りにも酷い末路になります。

嵯峨天皇が譲位したのが
弘仁十四年(823)とされ、
承和の変で流罪にされるまで、
本当にこの様な寂しい経歴を
辿って来たのでしょうか。

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