弘仁元年(810)に蔵人所と呼ばれる
天皇の秘書的役職を令外官として設置、
蔵人頭に藤原北家の藤原冬嗣が就任。
冬嗣は嵯峨天皇に仕える事により、
天皇家との関係を深めたとされます。
冬嗣の子である藤原良房が
嵯峨上皇の信任を獲得して
台頭したとされるのも
蔵人職の故となりますが、
橘逸勢が蔵人であったなら、
この役職に疑問が出てきます。
橘逸勢が平城天皇サイドで
この職に就いていたとすれば、
双方に蔵人所が存在したか、
平城天皇側に存在した職業を
取り込んだ可能性が浮上します。
平城天皇の在位は809年までと
伝えられている事から考えると、
平城天皇を打倒した後に
設置されたと書かれていても、
この時点で既に存在していた
線が濃そうではありますね。
承和の変における逸勢の記述は
全くの嘘であった可能性が
非常に高い物となりますが、
次期皇太子の擁立ではなく、
遥かに大きな問題に関わった
大物であった線が濃そうです。
相応の事をしていなければ、
敢えて史料に書き残すだけの
必要性すら存在しないので、
存在を抹消出来ない程の
活動をしていたのでしょう。