豊橋からトンネルを通って
浜松方面に坂を下る途中に
橘逸勢神社が鎮座しています。
承和の変で伊豆へ流罪とされ、
遠江国の板築駅に到った所で
逆旅(宿舎)で没したと
伝えられているようですが、
逸勢についてきた娘が
泣く泣く遺骸を駅下に埋葬し、
尼となり祭祀したとされます。
この地を過ぎる行旅の人々が
女の姿を見て涙を流した事が、
『文徳実録』に記されています。
この地に伝わる伝承によると、
京都に帰葬する詔が出たので、
娘は父の遺骨を掘り出し袋に納め、
父が最後まで離さずにいた古鏡を、
墓下に埋め帰京したとされます。
大正十一年刊の『引佐郡誌』には
次のように書いてあります。
板築駅
本坂の里は往時板築駅と称し
此処に橘逸勢の古墳あり。
承和八年(九)逸勢故ありて伊豆に流さる。
配所に赴くの途、病んで板築駅に卒す。
其女妙冲墓前に庵して誓念懈らず。
文徳天皇の嘉祥三年五月、
正五位下を追贈し、
勅を遠江国板築駅に下して
本郷に葬らせ賜へり。
妙冲屍を負ふて京都に帰れり。
時人嘆賞して孝女と為す。
此時妙冲逸勢埋骨の跡へ
庵舎を作り卿の受持せられし
鏡一面を君の代りとして埋め去る。
其古鏡今尚本坂村に在り。
大正十年(一九二一)頃は、
竹藪の中に竹坦をめぐらした
一定の狭い地域が禁足地とされ、
古来タチバナサマと称して
神聖視されていたそうです。
この墓所の地下に古鏡が埋納され、
墓所上の橘神社の小祠の御霊代が
地下の鏡であったという事は、
里人の公然の秘密であったそうです。
同書の口碑伝説の項には、
同所愛宕山の中腹に扁石数個あり。
蓋の如し。其下深く神鏡を蔵す。
是れ逸勢の屍に代えたるものなり。
何寺の頃にか之を掘り出し
八幡神社内に納む。
賊あり一夜之を盗みて売却す。
買ふもの悉く発狂せりと。
転充されて三州岡崎にあり。
本坂に竹平気吹なる者あり。
熱心に捜索の結果岡崎より買ひ来り、
石の唐戸に入れて八幡宮に納む。
遭難より六十年なりしと云ふ。
然るに明治四十一年再び盗難に遭ひ
今に探索の手掛りなきを憾とす。
一旦この神鏡は盗まれた後に
買い戻されはしたものの、
また盗難されたと言います。
この地域の古墳の盗掘は、
かなりの数に上るそうで、
古墳の密集地・東三河の
歴史を紐解ける物証が
失われたのは痛い所です。