会昌の廃仏を行った武宗が
皇帝になった時期の周辺に、
チべット(吐蕃)ダルマ王の
死亡報告がなされています。
ダルマ王は仏教弾圧を行った後、
僧により暗殺されたとされますが、
ここから吐蕃は内紛状態に突入し、
唐は吐蕃の重圧から解放された事で
廃仏が行える様になったとされます。
会昌三年(843)三月には、
ウイグル可汗に和蕃公主として
嫁いでいた武宗の実の叔母が、
長安に帰ったと伝えられます。
唐は翌月にウイグル人が信奉する
マニ教の弾圧に乗りだしており、
寺院の破壊と資産の没収、
マニ僧の殺害が行われたと、
円仁は日記で伝えています。
ここから見るとダルマ王が
仏教の弾圧をしたすぐ後に、
唐でも廃仏が始まった事に
なってしまうのですが、
関係無いとされています。
しかしこの周辺の様々な
史料に目を通してみると、
本当に関係がなかったと、
言い切るのは難しそうです。