新羅執事省との対話

承和三年(836)に日本が遣唐使を
久しぶりに派遣する事が決定し、
おn遣唐使船の難破時の保護を求め、
紀三津(きのみつ)に新羅との
交渉に望ませたと言います。

新羅側執事省は横柄な態度を取り、

小人の荒迫(こうはく)の罪を恕し、
大国の寛弘の理を申す

と日本へ牒を送ったとされますが、
大国・新羅が小人の三津に対し
尊大な態度を取ったとする形で、
失礼な態度が記されています。

新羅との関係を修復した日本も、
態度が酷い上に新羅の賊が侵攻し、
余りの酷さに新羅との関係を
見直す事になったとされます。

まあ新羅憎しは日本書紀の中に
散々見える話ではありますが、
この話はここで終わらず、
厄介な謎が含まれています。

新羅との対話を見ると、
小野篁(たかむら)が
登場している部分があり、
この解釈が非常に厄介な
歴史解釈の差を生みます。

この小野篁は聖徳太子まで
遡る名家の人間とされ、
日本と大陸との関係に
深い影響を及ぼしています。

会昌の廃仏の数年前に
派遣された遣唐使船に、
どの様な秘められた歴史が
存在しているのでしょうか。

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