橘逸勢は橘諸兄の曾孫とされ、
橘諸兄は葛城王と呼ばれますが、
葛城は役小角と関係する事から、
修験を行じた祭司王であった
可能性が浮上してきます。
この事については行基の本に
少し書いておいた事ですが、
葛城王の実際の所を探ると、
逸勢のイメージも変わります。
残念な事これに纏わる
御神体山に登山する事は
まだ叶ってはいません。
実際に行くと得られる情報が
結構あるものなのですが、
税金から経費が落ちると
言う訳でもない状態なので、
在野研究者の苦労所です。
私が何冊も書けているのは
実地調査あっての話なので、
研究に金を払うだけの価値を
見出だす人がどれだけいるかで
どこまで書けるか変わりますね。
美味しい所だけ持っていく
ネット乞食のような層から
有益な活動を支援する層まで
様々に存在していますが、
支援が多ければ研究内容も
格段に上がるのは確かです。
葛城王については久米田寺に
彼の古墳があるのですが、
古墳時代は壬申の乱で終わり、
朝廷側で使われなくなったので、
別系統である線が濃くなります。
問題は彼が朝廷側ではない
先住民の祭司王であったなら、
橘諸兄もその系統に属する
人物であった事になり、
歴史解釈を大きく見直す
必要が出てくる事でしょう。
空海と共に渡唐したなら、
修験者であった逸勢も、
密教を学んだ可能性が
相応に高くなります。