大伴氏

大伴氏は大化改新以前から
王権政治の中心に関わり、
壬申の乱では大海人皇子側で
戦ったとされています。

大伴は職務で王権に奉仕する
組織・団体の「伴」に由来し、
この伴を率いたのが伴造とされ、
「大伴」は伴造の中の伴造で
多くの伴を管掌していたと、
『日本古代兵制史の研究』に
直木考次郎氏が記しています。

大化以前の史料を見てみると、
大伴氏の軍事関係が多く残され、
軍事に従事した来目(久米)氏や
靱部(靭負部)氏を統率しています。

行基も橘諸兄と共に久米田寺を
建立した事が知られていますが、
久米氏と関わるなら軍事的にも
力があった可能性も高そうです。

私の行基の本を読めば、
大伴家持が大仏建立の
歌を作った話などに
疑問の出て来る事に、
自然となると思います。

軍事と寺が関係するのは
微妙な感じを受けますが、
古代の寺は政祭一致の
行政機関とされており、
戦争には政治や経済も
密接に関わっています。

戦後時代を見てみると、
武将も密教の修法をして
呪術戦を繰り広げており、
戦争における神仏の力が
軽視されていなかった事を
伺う事が出来ますね。

呪術は両刃の剣とされており、
回り回って自分に帰る事から、
神仏への信仰が重要とされる
傾向が存在したようです。

大伴氏が大海人皇子側で
戦ったのが本当であれば、
私の著作を読んだ方なら、
先住民族王権側である事を
推察する事は容易いでしょう。

異質な諸勢力の大連合に
「伴」の字を使うセンスは、
かのアレクサンダー大王を
彷彿させる所がありますね。

やはりアショーカ王の気配が
感じられる所ではあるので、
アレクサンドリアの高度な
学問体系と軍事との関係が
深い物であったのであれば、
軍事の見直しに必須でしょう。

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