逸勢と古鏡

橘逸勢は唐から古鏡を持参して
最後まで身を離さず所持しており、
死後も娘の妙冲が大切に保管し、
逸勢の遺骨を都に帰葬する時に、
遺骨の代わりに代葬したそうです。

湖西市の橘逸勢神社の御神体は、
この古鏡と言う事になりますね。

古鏡の四囲に隸書銘文があり、
次の様に記されているそうです。

光氏作竟四夷服
 光氏ノ作レル鏡ニシテ四夷(東夾・西戎・南蛮・北狄)服ス。
多賀君衆人民息
 多(まさ)ニ君ヲ賀(ことほ)グ衆(おほ)キ人民息(いこ)フ
胡羌除滅天下復
 胡羌除リ滅ビ天下復(かへり)ヌ(胡モ羌モ北方ノ蕃族デ「新」ヲ建テタ王莽ヲサス)
風雨時節五穀熟
 風雨時ニ節(よ)リ五穀(米麦粟豆黍など)熟(みの)ル
官位尊、蒙禄食(一字不足)
 官位尊(貴)ニシテ禄食(封禄・給与)ヲ蒙ル
 長保二親子孫力
 長クニ親(父母)ヲ保チ子孫カメム

第三句に「天下復」とあるので、
「新」(八~二三)が滅んだ
後漢(二三~二二〇)の直後で、
西暦五〇年頃と推定されています。

漢式鏡なので遅くとも二二年までで、
これだと「天下復」と矛盾するので
後漢になった直後とされていますが、
卑弥呼より前の古鏡になりますね。

卑弥呼にも鏡が関わりますが、
三種の神器や十種神宝にも
鏡が入っている事を考えると、
この鏡も神宝とされていても
大きく外れてはいなさそうです。

橘諸兄は葛城王で修験に関わり、
逸勢も家系的に密教に関わるなら、
逸勢も唐で道教や密教の修行に
関わった可能性も浮上します。

前漢の前が秦となるので、
徐福に連なる謎が存在する
可能性はありそうです。

この周辺は邪馬台国の本に
かなり詳しく書いたので、
興味があれば読んで下さい。

儒教と神仙道の関係や
ヤタノカガミについても
言及してはあるので、
大きくイメージが変わる
可能性が高いでしょう。

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