橘逸勢神社の鎮座する三ヶ日は、
現代でこそ浜松の西端ですが、
浜松から豊川稲荷に参拝する際、
ここを経由し山脈を越えたと
伝えられているようです。
大知波峠廃寺跡も存在し、
ここが交通の要衝であれば、
多くの人で賑わっていた
可能性が高い事になります。
豊橋と浜松を隔てる山脈は
本州の中心に位置しており、
倭人の五王が東を五十五国、
西を六十六国統治したと
書き残したとされるので、
候補地に挙げられます。
この山脈を中心として、
東西に都が広がっていたら、
現代のように寂れていない
壮麗な景色だったのでしょう。
この山脈には山岳崇拝の
痕跡が多数見つけられ、
政祭一致の古代王権での
聖地とされていたなら、
神々とコンタクトを取り
政治を運営するには、
最適な場所となります。
橘諸兄は葛城王と呼ばれ、
修験に関わっていた事は
行基の本に書きましたが、
逸勢も密教を修行する事で
神々と共に政治を運営する
アショーカ王的な王権に
連なる者なのでしょうか。
アショーカ王の仏教では、
修行により神々と交流し
政治を行っていた事が、
碑文に記されています。
『三遠式銅鐸と古代出雲』に
この詳細を書いているので、
興味があれば読んで下さい。