橘逸勢神社は浜名湖の
西側の山中にある
三ヶ日に鎮座します。
浜名湖周辺に新羅人が
七百人いたとされますが、
ここが国際都市として
栄えていた可能性を、
十分に示唆しています。
橘逸勢がここで政治運営に
関わっていたとすれば、
新羅を巻き込む動乱にも
関与した事になるでしょう。
当然、張宝高もここに
密接に関わっていた事は、
ほぼ間違いないでしょう。
会昌の廃仏がアジア全土の
一神教廃除運動であったなら、
新羅憎しの朝廷からすれば、
何としても滅ぼしたい都が
ここに存在していた事に
なりそうな気配が濃厚です。
『日本書紀』は新羅に対する
悪口ばかりが記述されており、
余程嫌っていた事が分かります。
となると新羅と政治的に関わる
橘逸勢の功績についても、
多大なバイアスのある事は、
念頭に置く必要があります。
逸勢は三遠の古代王朝を
復興させた側の人物で、
西日本の都よりも政治的に
重要な都に関わっていた
人物であったのでしょうか。
ここでやっと私の徐福や
南朝の研究とリンクする
ポイントまで到達する事が
出来たようですね。