承和の変がアジア全土を巻き込む
大規模な軍事的衝突であったなら、
その後はどう展開したのでしょう。
淳和天皇の系統が途絶えた事から
嵯峨天皇の系統に一本化され、
文徳天皇の暗殺疑惑の後に、
藤原良房により幼い清和天皇が
擁立された事が書き残されます。
ここから阿保親王の子である
在原業平と恋仲の藤原高子が
強引に産まされた清和天皇の子が
陽成天皇となると素行の悪さで
考光天皇を立てる事となり、
次の宇多天皇が菅原道真公を
抜擢したとされておます。
伴氏は健峯の後に応天門の変で
完全に命脈を絶たれたとされ、
藤原氏一強の時代となって、
上皇が院政でこれに反抗した
歴史が伝えられています。
菅原道真公は鬼道を復興させ、
天神信仰として隠された事は
既に記事にして来ましたが、
これらの流れが捏造なのは、
今までの文脈から察する事が
出来るとは思います。
個人的にはこれらの謎を
解き明かしてはいますが、
ここの説明も苦労を要する
膨大な説明が必要な部分で、
書くかどうかは不明です。
一日で十冊読めるとしても、
十冊書くのは数年かかり、
他を大幅に削る事になります。
ブログは継続にコストがかかり、
本は長期的に残る物なので、
やるなら本に書く方が良いのは
間違いのない話でしょう。