織田信長の深層

織田信長は軍事で天才的な才能を発揮した事で有名で、
人間性においては残虐非道とされています。

強大な軍事力を行使するには強大な経済力が必要です。
信長の経済的な側面は余り語られませんが、
実際のところはどうだったのでしょうか。

信長は第六天魔王を自称し比叡山を焼き討ちしたとされますが、
これは神仏をおそれぬ不遜な行為であったのでしょうか。

戦国時代の社寺は僧兵を持ち、強大な経済・軍事力を保持していました。
永正五年(1508)に細川高国の発布した「撰銭(えりぜに)令」は
粗悪銭の取り扱いを八大財閥に発布し経済を改善するためののもで、
財閥の四つが社寺であり、一つを除き比叡山関連だったそうです。

比叡山の日吉大社が行った貧しい農民に種籾を貸し
秋に利息をつけて返還させる貧民対策が
次第に変化して利息48-72%の高利貸しとしとなり、
暴力的な取り立ても行われ公家の家にまで押し入り、
借金のかたに田畑を取られ生活できない人が多くいたそうです。

織田信長は織田剣神社の神主の家系で忌部氏でした。
忌部氏は古代朝廷の宮中祭祀を司り、
天皇の皇位継承の儀式である大嘗祭(だいじょうさい)で
第一の神座に置かれる麁衣(あらたえ)も
阿波忌部氏が徳島県の剣山の山奥で栽培し織った物が使われます。

第六天魔王は仏教では悟りを妨害するとして悪く言われるものの
民に幸せに関わる存在としての信仰が残されています。
信長は神仏の名を語る勢力の既得権を奪おうとしたとすれば、
非道なイメージは既得権側に張られたレッテルで、
信長が天皇を軽視したとされるのも北朝側の天皇だったからで、
キリスト教の布教も経済的な目的が強かったからなのでしょうか。

戦国時代は中国の南宗が滅亡し紙幣が使用されたので
使い道の無くなった銅銭が大量に日本に来て貨幣経済が盛んになるも、
戦国時代中期には銅銭が入ってこなくなり価格が高騰しデフレに。
信長はデフレ対策として金銀を高額な貨幣として
初めて取引に使用する法令を出したそうです。

信長は米を通貨として使用するのを禁じましたが、
江戸時代には米を通貨として使用し、
長崎での奴隷密輸や武器の販売等の理由で南蛮貿易も禁止、
貨幣も金の分量を減らした小判を造るなど、
経済政策にも様々な変化がありますが、
時代の流れを大きく変えたのが信長であった事には
変わりないでしょう。

大勢を苦しめ自ら改革しようとしない既得権益に立ち向かい
悪者のレッテルを貼られる人物は数多くいますが、
信長もその一人だったのでしょうか。

忌部氏についてはもう少し書ける事があり、
三遠との関係なども追及していきたいところですが、
以前奥三河で会った人と四国の忌部氏関係の場所を
廻る話が出ていて保留状態になっているので、
実際に行ったらその後に考えます。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする