東国の独立から東西のバランスへ

平清盛は伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男とされています。
平将門の乱・平忠常の乱で東国での地盤を失い、
伊勢を本拠地とした事から伊勢平氏と呼ばれたとされ、
平氏以降の武家の世は東国の平将門が起点となっているようです。

平安時代末期、平清盛は後白河法王の不信任を得て
大政大臣にまで上り詰め娘を天皇に嫁がせ権力を強化。
朝廷により管理されていた日宗貿易の実務を仕切り、
中国から安銭を大量に輸入して経済力を握ります。

日本で本格的に貨幣を流通させたのは平清盛とみられており、
「百練抄」治承三年六月にはこう記されています。

近日。天下上下病悩。號之銭病。
今の世は、上から下まで病に悩んでいる。これを銭の病と言う。

西日本の天皇を中心とした経済体制で利益を得ていた平氏に対し、
東日本で武家が管理する社会を構築しようとしたのが源頼朝です。

頼朝は朝廷から任命される形で全国に守護地頭を置く権利、
全国の武士を指揮・処罰する権利、徴税権・軍事権・警察権など、
政治上の様々な権限を確保していきました。

頼朝は弟の義経に対して非道な行いをしたとして
良くないイメージが付きまといますが、
実際に義経は悲劇の英雄だったのでしょうか。

義経は源平合戦で急に現れ生き別れの兄弟だと言い、
独占専行で戦い配下の武士を勝手に成敗し、
頼朝の許可をとらずに後白河法王から官位を得たので、
頼朝から見れば源氏を使って平家を打倒し、
源氏を裏で操るために後白河法王から送られた事を
危惧してもおかしくない要素が多くあります。

義経が悲劇の英雄となり頼朝が悪く言われるのは
朝廷側が流した一方的な情報だったのでしょうか。
義経が逃げ延びチンギス・ハンとなった説がありますが、
元寇にも違った解釈が出来そうです。

頼朝は富士阿蘇太神宮を立て直したとされますが、
徐福と関わりのあるこの神社のみでなく、
東三河も頼朝と関わりがあります。

東三河にも徐福伝承がある事は本にしましたが、
頼朝は抑圧された先住民が自立を勝ち取るために
彼らの聖地も復興しようとしたのかも知れません。

東国の独立は平将門の乱から源頼朝、徳川家康まで、
長期に渡り一貫して続いてきた流れです。

頼朝も家康も征夷大将軍と言う
野蛮人の征服のための称号を授かっています。
平将門の深層に書いておきましたが、
東日本は蝦夷地と呼ばれ野蛮で劣った地域として
酷い扱いを受けてきましたが、
本来は優れた歴史が存在しているようで、
北関東の古墳と東三河とは密接な関係があります。

西日本が優れ東日本が劣っているとする歴史観は
西洋による一極支配の世界情勢と似たところがあります。
西洋文明主導の世界情勢が終わりを告げようとする現在、
東洋と西洋のバランスを取るためには、
東日本と西日本の歴史を見直すところから
初めていくのが良いのかも知れません。

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