国常立尊とアニマ・ムンディ

『神道伝授』二十五では

周易ニ神明其徳ト云ハ人心ノ中ニ具タル道理明成ヲ神明ト云也

と心に具わる道理=理が神とされますが、
心ノ神を理とするのは朱子の性即理に近く、
『伝授』三では内在神の思想を発展させ、

天地開闢ノ神ヲ国常立尊ト申、天神七代ノ第一也。
…人ノ本心一ニテ万ニ通ズルモ皆国常立尊也。

と人類全体の心であるアニマ・ムンディと
国常立尊をイコールで語っていますが、
ロゴスを中核にしたギリシャ哲学との
共通性すら見られる事になって来ます。

これは私の主張するアショーカ王の仏教が
ヘレニズムで習合した世界中の宗教哲学と
定義している事にも通じていそうですね。

伊勢神道がアショーカ王の仏教である
説一切有部と密接に関係しており、
大乗側から自らの悟りしか考えない
小乗として言い掛かりを付けられた
歴史までが関係して来るのなら、
羅山が批判したのは大乗仏教でしょう。

『神道伝授』六十一「人神同異之事」では

形有ヲ人ト云、形ナキヲ神ト云。
……本来不二ハ神モ人モ同理也

と人は無形の神=心ノ神を内に具え
神と不二で理が同じとされるので、
神人一体のため理を究明する必要性が
儒教の天人合一思想に通じています。

更に林羅山は『俗解』十五で、
以下の様に語っています。

天ノ気地ヲツゝミテ、又地中ニ通ス。人ノ心ニ神霊アルハ、即是天地。身体ノ外虚ナルハ、又是天ナリ。人ハ天ノ中ニアリテ、天又人ノ心ノ中ニアリ。是天人一体ノ理也。

この理を理論と解釈するのではなく
ギリシャ哲学のロゴスと見れば、
天地開闢ノ神である国常立尊こそ
「初めにロゴスありき」のロゴスで
人の内なる理・神ともなります。

ギリシャ語の聖書にあるロゴスが
言葉と訳された事がもととなり、
言霊で世界が創られたと言う類の
解釈も出て来てはいるのですが、
ここでは最初の神が理とされます。

これは一神教の神概念とは異なり、
性善説の性こそこのロゴスであり、
魂を磨く事でこれに到達出来ます。

儒教における天人合一思想と
神人合一思想が一体となり、
この境地を極めるためにこそ
学問が存在していました。

学問で理を究明していくだけで
悟りの境地には至れないので、
理を欺かない誠が必要とされ、
口先で都合の悪い事を誤魔化せば
天人合一からは外れていくので、
これこそが人生修行ですね。

これを習得した上で政治を行う
政治思想が存在していたなら、
封建主義の一言で片付ける事で
悪辣に民や自然を苦しめ続けた
現代政治の方が優れていると、
何を根拠に言えるのでしょう。

国常立尊は大本教に入った後に
艮の金神として崇敬されますが、
江戸初期に幕府の政治思想の
根幹に存在していた事について、
なぜ誰も触れないのでしょうか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする