性の定義

最近、色々な本を読んでいると
用語の定義が違っている事があるので、
儒教で良く間違って使われている
用語の定義について書いてみます。

儒教は性善説と言われていますが、
孔子は特別その様な事を言っておらず、
孟子が議論で使っていますね。

人間の本性が善か悪かを議論するのが
この用語だと思われていますが、
性は根本的に意味が違っています。

司馬遷も『史記』で孔子について語っていますが、
修行の末に至る境地に性があり、
分からない人には語っても分からないし、
分かる人には言わなくても分かるものとしています。

日本仏教では万物に仏性ありとしていますが、
ここで使われる性と似た概念ですね。

宝石も磨かねば石扱いされるので、
自らを磨く努力をしないと通用しないのは
どのジャンルでも似たようなものでしょう。

学問のすゝめは冒頭の部分の
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
というところだけ有名になっていますが、
世の中を見渡せば貧富の格差があり、
難しい仕事は学ばねば出来ないので、
知識を詰め込むのではなく実学を薦めています。

江戸時代の学問は儒教を意味していましたが、
元々は一流の官僚になるための学問で、
後醍醐天皇も朱子学を官学としていたそうです。

江戸時代で面白いのが儒教を商業に適応させ、
商人道が提唱されてきた事でしょう。
天地開闢の宇宙論をベースにして
幕府の運営から武士、農業、経営に至るまで、
実際の運営に反映させ成果をあげていたので、
西洋のイデア論と比較して研究してみると
非常に面白いと思います。

このブログは三遠の古代史の研究をしていますが、
東日本と西日本の中心にある三遠では、
東洋と西洋の思想哲学が研究され、
個人から国家に至るまでの様々な段階で
高度に運営されていた可能性があるので、
儒教やギリシャ哲学を良く取り上げています。

歴史をベースに三遠のビジョンを提示するとすれば、
プラトンのアカデメイアでも儒教の寺子屋でもなく、
アレクサンドリアの大図書館で行われていた様な
高度な知的活動を復興させる事ですが、
ここで研究されるのは知識量を誇る事でなく、
万物の本質を追及してそれをベースに
実社会の様々な段階で運営していくものです。

これは新しい事を始めるのではなく
徐福王朝で普通に行われていた事で、
お家芸を思い出す程度の可能性があり、
その根拠となる研究を纏めているところです。

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コメント

  1. シャイニー より:

    アレクサンドリアの図書館はクレオパトラの本棚だったと記憶していますが その凋落と運命を共にしたでしょうか?
    でもその価値をローマの人が捨て置くでしょうか?
    いろいろ思うところです

  2. Katsuyoshi より:

    アレクサンドリア大図書館の学術研究の価値は非常に大きいので是非調べてみて下さい。
    プラトンやアリストテレスなどの個人の研究に収まらない総合的なもので
    今後の時代のヒントになるものがあると思います。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8

  3. シャイニー より:

    マケドニア クレオパトラ7世の辺りは映画の知識しかありません
    散逸はローマの台頭とエジプトの国力バランスと共に起こっていたと言ってもいいのでしょうか?
    ここで 王女ゼノビアが出てきました 隊商都市でしたね 中東諸国の動揺が垣間見えます 今の日本も同じでしょうか?學びます

    それと…Wikipediaは応援しなければいけないですね☺️